「ちぃ」の痕跡
「ちぃ」が亡くなってから、徐々に「ちぃ」の痕跡がなくなっていきます。
まずは、トイレのうんちでさえ、捨てるのをためらいました。風呂のフタの上に残された毛、パソコンのキーボードの後ろ、水飲み器のフィルターなどに残る毛、黒と茶色のさびの毛です。
丁寧に拾い集めて保存しました。普通に掃除してなくなってしまうのがダメな気がしたからです。
3匹のお世話
これまで、約12年の間あたりまえに猫3匹の世話をしてきました。突然お世話の対象が2匹になってしまいました。「ちゃと」には、毎食前に肝臓の薬、亡くなった「ちぃ」には利尿剤、食事中に糖尿病用の注射、食事はドライフードが11歳用、14歳用、便秘がちな「くぅ」には「消化ケア」、さらにそれぞれウェットフードをのせるなど、手間はかかったけど苦ではありませんでした。
その当然の行為が楽になってしまったのです。トイレも3匹用に3つあり、病気のコが多飲多尿でしょっちゅうシートを交換していたのに、2匹になって平時よりも頻度が減りました。
物足りなくなってしまったのです。
あのコはもういない
生活のあらゆる場面で、あのコがいないことを実感します。風呂の掃除に行くとき、風呂に入るとき、階段を上がるとき、(「ちぃ」行くよ)と、呼びそうになります。トイレの扉を開けていても隙間から白い右手がはいってくることもない、パソコンの裏の配線をいじっていても見に来ない、中2階の倉庫で捜し物をしていても、ベランダで洗濯物を干すときも、寝るときにネズミのおもちゃをくわえて「ウガウガ」という声も聞こえてはこないのだ。
さみしい。
代わりに残った2匹の老猫は、少しだけ甘えん坊になりました。
泣くな
わたしは子供の頃、男は泣くなと育てられました。今では言うと叱られると思いますが、あの頃はそういう時代でした。これまでのわたしの人生においても涙を流した場面は数えることができるほど少ないのです。実父が亡くなったときでさえ、涙はこぼしていません。
ところが「ちぃ」が亡くなってからのこの3ヶ月、幾度となく涙がこぼれて仕方が無いのです。
前触れもなくふいに「ちぃ」を思いだして、すぐにまぶたが熱くなります。年を取り涙腺がゆるゆるになったのだろうと推測しています。
もう一度会いたい
うちには、2匹の老猫がいます。残っているコたちをかわいがればよいと知人に言われました。もちろんこのコたちが大切なことは言うまでもありません。亡くなったコと合わせて3匹で生活していたのです、喪失感は一層際立ちます。
病院で亡くなる直前までわたしと意思を交わしていた、わたしに向けられていたあの眼差しは、あの魂は肉体の消失とともにどこかに行ってしまったのです。
つい、スピリチュアルなことに思いをはせてしまいます。虹の橋のたもとに行ったと言いますが、霊になって私のそばについているという話もあります。近くに居るのなら幽霊になってでも会いに来てくれないでしょうか。
しかし、わたしには霊感というものが全くありません。そのような気配を感じることもまっっったくないのです。毛皮を変えて3度生まれ変わるという話やネコに9生ありなどの話を聞くと新たに生まれ変わってきてくれるかもしれないなどととりとめの無いことを考えていたりするのです。
里親にならないか
「ちぃ」が亡くなったことを知っている知人を介して保護している猫をもらってくれる里親を探しているという話がありました。
ロスで沈んでいる私は、気分が浮き足立ちました。ペットロスを癒やすには、やはり新しいコをもらうのが一番なのでしょう。話を聞いた妻が仕事中の私に伝えてくれました。毛の柄はどうか。いちばんに頭に浮かんだのは、毛柄のことでした。いや、毛皮を変えて生まれ変わってくるというのならどんな毛柄でも良いのではないか。とりあえず、妻に見に行ってもらいました。
既に頭の中では子猫を飼うことでわくわくしていました。写真を何枚か撮ってもらい、見ました。
さび柄はいないか、かぎしっぽのコは居ないか。5匹いた子猫は、サバ柄、キジ白、茶白など、うちでは飼ったことのない柄ばかりでした。あんなにわくわくして、すっかり子猫を飼う気になっていたわたしは、なぜだか急激に気持ちがしぼんでいくような感じがしました。
また、この子たちの見た感じは、明らかに「ちぃ」が死んだ日より前に生まれています。毛皮を変えて生まれ変わるにはまだ早すぎるのです。
その方には申し訳なかったのですが、里親の話はお断りすることになりました。
そして気がついてしまったのです。「ちぃ」に似たコを求めていることに。
「ちぃ」がいなくなって辛い時期ではありますが、新しいコを迎えるにはまだ早いのではないか。すぐに別のコをかわいがるのは「ちぃ」に申し訳ない気がしてならないのです。
では、「ちぃ」に似ているコなら良いのか。そう「ちぃ」に似ているコなら、見るたびに「ちぃ」を思い出すことができる。「ちぃ」のことを思いながら愛情を注ぐことができるのではないだろうか。
現実的に考えて「ちぃ」が戻ってくることはないのです。ならば、「ちぃ」のような行動をしてくれるコが理想的なのではないか。毛柄によって性格がある程度決まっているとも聞いた。ということは、なおさら「さび柄」を求めてしまうことになるのでは。
さび猫は、数が少ないと聞きます。それでは「さび」にたどり着くには、知り合いやつてを頼っていたのでは奇跡でも起きないとめぐりあえないでしょう。何年か待てば本当に生まれ変わって自分からやってくるかもしれないが、58歳のわたしが子猫を飼うことができる年齢を越えてしまいます。20年の寿命がある子猫を飼うには、今でもギリギリなのです。わたしが先に逝ってしまうかもしれないのです。
里親募集のサイトで探そう
そこで、その日から様々な里親募集のサイトを探し始めるようになりました。毛柄で検索条件を絞れるサイトもあり、これらのサイトを巡回するのが日課になりました。
「さび」だけでなく、「子猫」も条件にするようになりました。
猫が生まれ変わるのは、数ヶ月から1年というネットの記事がありました。「ちぃ」が、生まれ変わってやってくることを信じ込んでいるわけではないのですが、「ちぃ」が亡くなった5月6日より後に生まれたコなら、「ちぃ」である可能性があるかもしれないのです。
あのコを思うが故の馬鹿げた空想、しかし、徐々にその気持ちが堅くなり、募集している猫の生まれた日を第一に考えていました。
「ちぃ」に顔つきの似ているさびネコもいました。幼いコより少し月齢の高いコの方が似ている傾向がありました。これは成長したら似てくるということなのかもしれません。
そして朝、昼、晩とサイトを巡回する日々が続き、ある日、ついに。(つづく)